チヒョルト著『書物と活字』の日本語版について

欧文タイポグラフィを勉強している人でチヒョルトの名を知らない人はまずいないでしょう。20世紀ヨーロッパにおいておそらく最も有名なタイポグラファ、またタイポグラフィ理論家です。

チヒョルトは1902年、当時出版や印刷産業が盛んであったドイツのライプチヒという街の看板かきの家に生まれました。(日本で看板かきというと、主に絵を描く仕事を想像するかもしれませんが、ヨーロッパでは文字をメインに扱います。)カリグラフィーの訓練や美術教員養成コースで学んだ後、若いチヒョルト自身も父親の仕事である看板かきの仕事を手伝ったことがあるそうです。今や手書きの看板はヨーロッパでも日本でも見る事が少なくなりましたが、当時は店や建物のサインはまだプロの看板かき(英語で言う Sign Painter, ドイツ語では Schriftenmaler)が全て手で行っていました。

さて、チヒョルトが1952年に出版した『Meisterbuch der Schrift』というこの本は、主にそういった看板かきに向けて書かれたものです。日本語版は1998年に朗文堂から出版されていますが、この『書物と活字』というタイトルは間違いです。原題 『Meisterbuch der Schrift』を直訳すると「書体のハンドブック」で、書物という言葉は入っていません。というのも前述のようにこの本は基本的に本文組みのタイポグラフィーについて書かれた本ではなく、看板等の大きなサイズで文字を見せる場合に注意しなければならない点について書かれている本なのです。(写真はドイツ語版初版(右)とペーパーバックの英語版(左)。)

 

オリジナルドイツ語版(右)と、ペーパーバックの英語版(左)

 

本ならば表紙やタイトルページ等の書体を大きなサイズ(ディスプレイ用)で見せる場合については有用ですが、文字を組むとき、ディスプレイ用と本文用では異なったルールが必要なことが多いですし、書体のチョイスも、本文用とディスプレイ用では当然ながら違ってきます。

ところがこの日本語版は『Meisterbuch der Schrift』を「書物用のタイポグラフィの本」と解釈したため、誤訳・異訳が多く見受けられます。

例えば日本語版7ページの最初の文「質のたかい書物や印刷物をデザインするひとには、つぎの3つの課題が要求されます。」ですが、原文は「Wer eine gute Schrift entwerfen will, muss wissen, dass seine Aufgabe dreierlei verlangt」で、 直訳すると「質のたかい文字を描きたい人には、つぎの3つの課題が要求されます。」です。「書物や印刷物」という言葉は入っていません。

このように、原文に無い「書物」「印刷」などの単語がところどころに挿入されているので、読者は「この本は書物のためのタイポグラフィの本」と勘違いしてしまいます。

さらに誤訳・異訳より残念なのは、原文には存在しない文が入っている事です。例えば7ページ目、11行目の「読書に集中できるように、つねに統一感を意識し、一行のなかにも意味のないストレスなどはつくらないことです。」は原文はもちろんのこと英語版にも在りません。

その他、小文字のスペーシングについても誤訳があります。

また「日本語版の発行にあたって」と題されたあとがきには「本書には150書体の名作活字が紹介されています。しかし重要な活字が3つ欠落しています。」とあり、その中のひとつに Paul Renner 作の Futura が挙げられています。その理由として「Futura という書体はナチに好まれ使われた不幸な側面がある」と仄めかされていますが、私の手元にある初版(1952年)のオリジナルドイツ語版に Futura は含まれています。(写真はドイツ語版の Futura のページ見開き)

 

ドイツ語版(1952年の初版)の Futura の見開き

 

本文中のスペーシングの善し悪しの例でも Futura が使われていますし(写真参照)、気付いたときは吹き出しそうになったのですが、この部分に関しては日本語版でも Futura が使われています。(ちなみにスペーシングの例で使われてる単語自体も “LADEN”(店) “SCHÖNER HAUSRAT”(美しい家具)など、書物用のタイポグラフィではなく、店の看板向けだというのがドイツ語読者にとっては明らかです。)

 

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ナチスと書体については複雑なテーマですので、また別の機会にブログに書いてみたいと思いますが、はっきりと言えるのは、 Futura は当時も今も人気の書体で、広く一般的に使われています。「Futura がナチスを思い出させる書体」という事実はありません。

最後になりますが、朗文堂は日本で長らく唯一本格的な欧文タイポグラフィの本を出している出版社だったので、それ故に影響力も高いと思います。実は私自身学生時代はこの日本語版を手に取って読んでいました。英語版そして原文が読めるようになってから、(とは言え私もまだドイツ語は辞書を引き引きですが、 “Meisterbuch der Schrift” に関してはドイツ人の書体デザイナーの夫と一緒に、一文一文意味を確かめつつ読みました。)残念な事実に気付きました。

ドイツ語版もしくは英語版と日本語版を比べ読みが出来る方は、ぜひご自分で確かめてみて下さい。英語版は原作にとても忠実に訳されています。

どうか改訂版が出版されますように!

2 thoughts on “チヒョルト著『書物と活字』の日本語版について

  1. 増田昌義 masuda masayoshi

    初めまして。欧文タイポグラフィについて調べていて、このサイトにたどり着きました。「欧文タイポグラフィを勉強したいかたへ」を大変興味深く拝読しました。わたしは、販売促進物(カタログなど)を制作しているグラフィックデザイナーです。たまに海外向けに英語版のカタログを日本語版を元に制作することがあります。その際の文字組に悩む事も多いので「欧文タイポグラフィを勉強したいかたへ」は今後の勉強の参考になりました。今後も興味深い記事を楽しみにしています。

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    1. Shoko Mugikura Post author

      参考になったと言っていただけて嬉しいです。ありがとうございます。また「欧文タイポグラフィのこんな事が知りたい。」などリクエストがあれば知らせて下さい。

      Reply

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