*この記事は第35回タイプトークスの講演で話した内容の一部をベースにしています。*
皆さんはマクロ・タイポグラフィやマイクロ・タイポグラフィという用語を耳にしたことはあるでしょうか?欧米では近年タイポグラフィの話になるとよく出てくる用語です。
マクロ・タイポグラフィというのはレイアウトやグリッド、組版形式など一般の人が見てもすぐに分かるような組版の大きな枠組みのことです。
それに対しマイクロ・タイポグラフィというのは行間や単語間・文字間のスペーシング調節、ハイフンの設定や文末の調整、組版ルールや表記法の設定と統一など、地味で時間もかかる、組版の細かな調整のことです。
ここ数年ほどデザイン業界では書体デザインやタイポグラフィへの関心が高まり、イベントや書籍も増えています。しかしながら多くの場合はマクロ・タイポグラフィの領域で留まっており、マイクロ・タイポグラフィについてはまだまだ情報源・情報量ともに少ないのではないかと感じています。
例えば日本で欧文タイポグラフィを習う時に必ずと言っていいほど出てくるのがこの本。50年代、60年代のスイス・タイポグラフィの集大成とも言える本、ヨゼフ・ミュラー=ブロックマンの『グリッド・システムズ』です。
合理的なシステムに基づいたデザインは言葉を差し替えても応用できる、いわば普遍的な考え方の部分が多く(だからこそインターナショナル・スタイルという別名があります!)学ぶべき20世紀デザインの理論であることに疑いはありません。
でも少し注意して組版を観察すると、
1 ラギッド組み・インデント無しなのでパラグラフの終始が分かり辛い
2 段落最後の行が一単語のみで終わる頻度が高い
3 行末の扱いが大雑把
など、マクロ・タイポグラフィ的には画期的なスイス・タイポグラフィとはいえマイクロ・タイポグラフィの視点から見るとマイナス点が多く見受けられます。
ロシア・アヴァンギャルドやバウハウスなどのデザイン&芸術運動と同様に、スイス・タイポグラフィの提唱者も建築や芸術をバックグラウンドに持つ人が少なくありません。それが何を意味するかというと、全体の構成は理念に基づいてカッコよくデザインされていても、読みやすくするための細かい組版の調整に関しては注意が払われていないことが多いのです。
また、合理性やモダニティを追求し過去を一掃しようとしたあの時代特有のイデオロギーに基づいた実践例もあるので、そのままお手本とするのは考えものです。インデント無しの組版や小文字だけの組版などはその良い例でしょう。
マクロ・タイポグラフィがある程度は「見た目」や「感覚」で判断して実践できるのに対して、マイクロ・タイポグラフィは使われる文字や言語、そして組版ルールの知識を必要とします。それがマイクロ・タイポグラフィが敬遠される理由の一つなのかもしれません。
ただ感覚とは違って、組版の技術は訓練すればかなり上達しますし、組版の腕が上がればデザインがさらに楽しくなります。遠くから見てかっこいい建築でも、細部のデザインや作りが雑だったら興ざめしますよね?かといって細部は入念に作られていても、全体のデザインがイマイチだとそれも困りもの。マクロ・タイポグラフィとマイクロ・タイポグラフィも同じで、相反するものではなく両方が出来て初めて素晴らしいデザインと言えるのではないでしょうか。
次回はモダン・タイポグラフィとインデントの関係について書きたいと思います。
こんにちは、コンです。いい記事ですネ。ありがとうございます。
日本でマイクロタイポグラフィを美しく実現するのが難しいのは、特に書籍や長めの読み物の場合、あまりにも作業量が多く「翻訳者」「編集者」「デザイナー」「組版者」「Proof Reader」が共通のルール・認識に基づいてそれぞれの仕事の役割を果たしていく必要があると思うのですが、外国語組版となると、組版する者の力量だけに任せる傾向があり、これはかなり酷な話ですよね。マクロタイポグラフィはデザイナー主導の元で実現可能だと思いますが、マイクロタイポグラフィは関わる全員の力がどれも重要になると思います。残念ながら日本ではルール・認識の確認がないままに、「翻訳者」「橋渡し役」「デザイナー」のみで仕事をしなければならない環境が多いようで、マイクロタイポグラフィにまで意識がいかないまま校了してしまっているケースが多くあります。このような記事をたくさんの人に読んでいただけると、日本国内の欧文組版に関わる人たちの意識も少しずつ変わっていくのでは、、と期待しています!!